・奄美民謡武下流
 瀬戸内同好会


奄美のしまうたへの案内


朝ばな節
長朝ばな節
俊良主節
黒だんど節
らんかん橋節
花染節
むちゃ加那節
曲がりょ高峠節
朝別れ節
徳之島節
一切り朝ばな節
六調

島唄の解説 (武下 和平 CD「立神」解説書より転載 )

朝ばな節
・ かん誇らしゃんむんや
  汝(な)きゃとくま寄(ゆ)りゃとぅてぃ
  かん誇らしゃんむんやむんや
・貴方たちとここに寄り合って、語り合うことが出来るとは、こんなに嬉しいことはありません
・ いもちゃん人(ちゅ)どぅ真実やあらむぃ
  石原くみきち
  いもちゃん人どぅ真実やあらむぃ
・石原道を踏み越えて、わざわざお訪ね下さった人こそ真心のある人ではないでしょうか
長朝ばな節
・ 西からいもち 東(ひぎゃ)からいもち
  かほな取り合わせは 
  希(まれ)やあらむぃ
・西からも東からもいらっしゃいました。このような御めでたい席に寄り合うのは希なことではないでしょうか
解説:
 節名の「あさばな」(朝端)は、明け方の意。「はな」は初っ端、出花などの言葉にも通じ、朝明けのすがすがしさをめでたいとする心かがこめられている。そのため、一番最初に歌う挨拶歌になっている。叉、その歌心のめでたさから祝典歌にもなっている。これを歌いながら声の調子を整え、座を清める意味もある。「朝ばな節」には二通りある。その一つは通常「朝ばな」とよばれている短い節の朝ばなで、もう一つは文字どおり長い節の「長朝ばな」である。「長朝ばな」は、あまりにもテンポがのろくて繰り返しが多く、特定の歌い手でないと歌えない難解な曲である。それを誰にでも歌えるようにくずしたものが、通常の「朝ばな」である。これは、詩型も異なる。「長朝ばな」が八八八六調、三十音4句の琉歌の形態をとっているのに対し、「朝ばな」は3句の全く自由な詩型になっている。歌う仕来りももあって、祝典の際は初めに「朝ばな」を2,3首歌ってすぐ「長朝ばな」を歌うことになっている。曲調も挨拶歌に相応しく喜びにあふれ、歯切れのよい壮快な感じを与える曲である。

俊良主(しゅんじょっしゅ)節
・母(あんま)と父(じゅう)と
 結(む)だる縁(いん)な  
 磯端(いしょばた)下りぬ枯れにぎゃな心
 愛(かな)しと結だる縁な 
 餅(むち)とかしゃとぅの心









・母と父が結んだ縁は、磯端に垂れ下がった枯れ苦菜(にがな)のようなものにしか私には思えない。それにひきかえ愛しい人と私が結んだ縁は、餅とそれを包んだ芭蕉の葉っぱのようにぴったり合っている。

 *「にぎゃな」  苦い汁のでる薬草   
 *「かしゃ」   柏餅の柏の葉が語源。
    餅などの物を包むのに用いられる芭蕉
    などの広い葉っぱ
 *「心」は琉歌独特の修辞法で「・・・のような」
    あるいは「如くに」の意

       
・いもちゃいもちゃ 元ぶれやくむぃが
 いもちゃんどあんま
 新茶の上茶入りて 夜光貝(やくげぇ)ぬ
 味噌(みす)てぃけぇ出(い)じゃそあんま
・さあ来ましたよ。昔なじみのあの方が見えましたよ。新茶の上茶を入れて、夜光貝の味噌漬も出しましょうか、お母さん。


 *やくむぃ     目上に対する敬称
 *あんま(阿母) 上代語の転化。
    ずっと古くは母。今では祖母の意
解説:
 この「俊良主」は、以前は「ふなぐら節」という名で呼ばれていた恋歌であった。主人公の基(もとい)俊良は、明治22年、奄美大島から第一回の選挙で選出された代議士。新婚間もないある年の夏、愛妻美代加那が名瀬湾の磯に貝採りにいって、足を踏み外して溺死するという痛ましい事故があった。
 愛妻の不慮の死に俊良の悲嘆ははたから見ていられない程であった。人々がその慰めの歌をよんだことからこれが流行って、その後曲名も「俊良主節」に変わったのである。「俊良主節」の元歌はこのようなものだが、この曲には元歌にとらわれず、人生百般をうたったさまざまの歌詞がつけられている。これは他の島うたにも共通する特色といえよう。
 南大島瀬戸内方面では、歌う順番に「朝ばな節」の次には必ず「俊良主節」、その次に「黒だんど節」が三点セットとして歌われる仕来りになっている。

黒(くる)だんど節
・阿鉄(あでつ)小名瀬(くなぜ) 
 くるだんど一番な 阿鉄小名瀬
 東(ひぎゃ)や嘉鉄(かてぃてぃっ)
 手舞(てまぃ)ぬ一番な 東や嘉鉄

・黒だんど節の一番上手なのは西は阿鉄、小名瀬村の人々で、手踊りの上手なのは、東は嘉鉄村の人々である

・照(てぃ)りぎゅらさ 十四日御月
 (うでぃき)と十五日御月ぬ
 照りぎゅらさ
 うりゆんまきゅらさ 島や節子(すぃっこ)ぬ
 富姐(とみばっけ)目眉や うりゆんまきゅらさ
・ああ、十四日、十五日のお月様の照り映えのなんと美しいことよ。しかし、それよりも美しいのは、島で名にしおう節子生まれの富姐さんの目眉だよ



 *「富姐」 文久年間に生まれ、昭和8年まで生存した瀬戸内町節子生まれの手八丁口八丁の女傑。あの時代に、情熱の赴くまま自由奔放に生きた珍しい存在。馬に打ち乗り疾駆する姿は若者たちの憧れの的だったと言う。   
解説:
 曲名の「黒だんど」とは、空が雨曇りしたぞと言う意。
文英吉氏の名著「奄美民謡大観」によると、奄美が薩摩に黒糖収奪によってあえいでいた頃、名瀬の大熊で十二、三歳の子守娘が背中の子をあやしながら歌ったものだという。娘は、製糖小屋の空が雨曇りしたのを見て「地主の栄多喜翁は、甘蔗汁を搾る水車を回す待望の雨が降って喜ぶだろうが、家人(農奴)の宮松はこき使われるので泣きの涙だ」とうたった。
 これが始まりで、次から次へと子守仲間に歌われ、やがて大人の世界に伝わって旋律も次第に洗練されて今日の名曲になった。
 歌は西回りに下りて、大和村から宇検村、旧西方村と流行って行き、その土地土地で色々な風に歌われ練られていったが、古仁屋を中心に旧東方村で盛んにうたわれるようになってから、詩型も今日見られるような形に落ち着いた。
 この詩型は、琉歌の八八八六調に対する五八五調を基本にしながらあも、それにとらわれない自由さが見られる。叉、内容的には、日常の語り合い、声の掛合いが、そのままうたいこまれているのが特徴である。旋律も美しく、島々の人々は、さまざまな感慨をこの旋律にのせてうたっている。
 なお、ここに掲げた「黒だんど一番な・・・」の歌詞は、訳に示した通りだが、地元では異説もある。それによると「黒だんど」という句には”苦しんだ”の意がこめられており、あの有名なイマジョオ伝説で一番苦しんだのは、阿鉄小名瀬の人たちであったというのである。

らんかん橋節
・大水(うくむぃでぃ)ぬ出(いじ)てぃ
 らんかん橋洗流(あれぃなが)らち
 忍(しぬ)でぃ来(きゅ)る加那や
 泣ちどぅ戻(むど)る

・大水が出て欄干橋が洗い流され、忍んで来た恋人は逢いたい人に逢えずに泣き泣き戻った


・白水(しりゃむぃでぃ)ぬ出て
 さい手(た)長ば洗流らち
 餌取人(ゆどぅとぅりゃ)ぬ加那や
 泣ちどぅ戻る

・濁り水が出て、川えびも流されてしまった。餌取役の妻は泣いて帰った


 *「さい」小さい川えび  「手長」川の車えび
・こもりちばこもり 渡らぬ深ごもり
 情け橋かけて 渡ち給(たぼ)れ

・溜り水が深くなって、とうとう渡れなくなってしまった。情橋を架けて渡してください。

 *「こもり」 窪地、沼
解説:
 歌自体には、とりわけというほどの由来はない。奄美は月に35日降ると言われるほど雨が多い.雨が降ると大水が出て、川は白く濁り、橋が流され、人々は難儀する。その情況を歌いながら、恋人や妻たちの嘆きを歌った情歌となっている。
 歌詞に「流れる」という言葉があるため、結婚式の宴席などではうたわれない。めでたい席では歌詞を替えて歌うのである。

花染節
・花染に惚(ふ)れぃて 童妻(わらべとぅじ)かむぃてぃ
 花のさおれらば 吾(わ)くぅとぅ思んしょれ



・乙女の花の美しさにひかれて、貴方は幼な妻をめとられたが、花は時節が来れば萎えるように、その若妻もいつかは色あせるでしょう。その時は、私のことを思いおこしてください。
 *「かむぃてぃ」 娶って
・童妻かむぃてぃ 肝許(きもゆる)ちうくな
 ゆかり馬ぬ手綱(てぃでぃな) 許ちうくな
・若妻をめとったら、心を許してはいけない。従順な上馬でさえ手綱を緩めておくことが危険であるように、いつ心変わりするかわからない。
・伊津部(いてぃぶ)立神に 大和船(ふねぃ)かかてぃ
 加那が御船(みぶねぃ)ばしゃあらむぃ
 招(まん)ちみりゃだな
・伊津部立神に大和船が潮がかりしたが、愛しいあの人が乗っていないだろうか。招いてみることにしよう。
・招ちみちゃなりば 加那が御船やすが
 仮屋やだぁ仮屋かよ 元(むとぅ)ぬ東(ひぎゃ)仮屋
・招いてみると、やはり愛しいあの人が乗る船だった。それで仮屋はどこですかと尋ねたら、元の東仮屋だという。
・伊津部立神に あや手ぬげぇさげてぃ
 さざけるば大熊(でっくま) 引くば伊津部

・伊津部立神に、目も綾な布がかかげられているが、あれは鹿児島から来た船の着く港を知らせる合図の旗。旗が上がっている時は、大熊港行きで、下りている時は伊津部港行きです。
解説:
 1首、2首がこの「花染節」の元歌で、2首の内容は、沖縄の宮古島民謡の「なりやまあやぐ」にも類似歌がある教訓歌。「花染」とは、花模様で染めた美しい着物のことをいった語で、転じて表面上の美しさ、美人、遊女などのたとえ。すなわち、表面上の美しさは初めのうちで、時を経ないうちに色あせてしまい、本当の美しさは心の美しさにあるということを歌ったものである。
 3首以降は、前記の元歌とは内容がかけ離れてくる。藩政期に藩庁から派遣されてくる代官所の役人とその現地妻との港でのやりとりを歌った相聞歌である。
 藩政期、藩庁から下ってくる役人は単身赴任が原則だった。そのため島での任期中3、4年間、美しい島娘を物色して現地妻とする習慣があった。選ばれた娘はもちろん、家族まで特別な優遇が与えられ、そのためこれを非常な名誉と考える風潮も一部にはあった。そうした今から考えると奇妙な価値観、風潮がうかがわれる歌詞である。なお、この「花染節」は東節で、南部大島加計呂麻島の北端、実久村の宮原博治老が伝え持っていた曲を、今回初めて公開したものである。

むちゃ加那節
・喜界(ききゃ)や小野津(うのでぃ)ぬ
 十柱(とぅばや)むちゃ加那
 あおさ海苔剥(ぬりはぎ)が 
  行(い)もろやむちゃ加那

・喜界は小野津十柱のむちゃ加那よ、海苔を採りに行こうよ。
・潮(しゅ)や満(み)ちゃがゆり
 太陽(てぃだ)や申時(さんとき)下がゆり
 十柱むちゃ加那や 
 潮波(しゅなみ)に引きゃされてぃ
・潮は満ちあがって太陽は西に傾いている。十柱のむちゃ加那は潮波に引き込まれたよ。

*「申時」 午後四時ごろ

解説:
 先の花染節とは対照的に、役人の要求を拒んだばかりに数奇な運命に弄ばれることになった美しい母娘の悲劇を歌った物語歌である。
 大島本島の南端、加計呂麻島の生間集落に浦富という娘がいた。その美しさは、島中に聞こえていた。それを耳にした新任の代官は浦富を求めたが、娘はあっさり断った。面目丸潰れとなった代官は、浦富一家に陰湿な迫害を加えた。絶えかねた一家は、とうとう浦富を放逐することにした。ある真夜中、泣く泣く娘を小船に乗せ、大海に流した。
 浦富の小船は、はるか離れた喜界島小野津の十柱に辿り着いた。小野津の人々は、この憐れな漂流者を優しく迎え、やがて浦富は妻を失ったばかりの農夫の妻となった。二人の間に生まれたのが、むちゃ加那である。この娘がまた母にも勝る美しさ。それが、同じ年頃の娘たちのねたみを買った。ある日、むちゃ加那は、悪意を秘めた仲間たちから青海苔摘みに誘われた。それが、紹介した歌詞の部分である。何も知らずに青海苔を摘んでいたむちゃ加那は、突然背後から突き飛ばされて海中に落ち溺死してしまった。死体は小野津の浜に打ち上げられた(一説では、住用村の青久ともいう)。突然の娘の横死に遭った母浦富は気が狂い、自らも投身して娘の後を追った。

曲がりょ高峠(たかてぃじ)節
・曲がりょ高てぃじに 提灯(ちょうちん)ぐゎばとぅぼち
 うりが明(あか)がりに しにょでぃいもれ
・曲がりょ高峠に提灯をとぼして待っていますから、その明かりを目あてに忍んで来てください。

・うりが明がりに しにょで行きょいすれば
 他人(ゆそ)が目(むぃ)ぬ多(う)くさ 
 口ぬしぎさ


・その明かりを目あてに行こうとすると、他人の目が光っている。噂の口がうるさい。


・他人(ゆそ)が目(むぃ)ぬ多(う)くさ 
 流行(はや)らばもかもゆんにゃ
 こぬ愛(かな)しゃしちゅてぃ
 何(ぬ)恥かきゅり


・他人の目が多く、評判になっても構わないよ。こんなに愛し合っている仲ではないか、何の恥をかくというのか。


解説:
 「曲がりょ高峠」とは、北部大島龍郷町の赤尾木と屋入の間の峠。藩政末期頃、ある豪農の未亡人とその夫の弟との間に道ならぬ恋愛事件がおき、これを家人(やんちゅ)が歌にしたのがこの「曲がりょ高峠節」の由来であるという。大変哀調をおびた優美な曲である。
 なお、この「曲がりょ高峠節」の歌詞は、各地の八月踊りの歌の中にも盛んに用いられているが、曲想はかなり異なっている。

朝別れ節
・朝別れだむそ かに苦(く)てぃさやすぃが
 三日(みきゃ)十日二十日 ぬきゃにすぃぎろ
 
・晩に逢えると分かっている朝別れでさえ、こんなに苦しいのに、もし三日も、さらに十日も二十日も離れていることになったらどうしよう。その間どう過ごしたらよいのでしょうか。とても耐えられない。

・朝どぅれ夕どぅれ 鳴きゅる浜千鳥(はまちじょりゃ)
 ありむ吾きゃぐぅとぅに あてぃどぅ鳴きゅり

・朝凪夕凪の静かな浜辺で、浜千鳥が寂しげに鳴いているが、あの鳥も私のような悲しいことがあって鳴くのだろうか。

 *「朝どぅれ」 瀞(川の水が深くて、流れがほとんどないところ)の転化、転意。朝凪。

解説:
 武下和平の師匠山田米三氏が伝え持っていた南部大島の宇検村湯湾に残っていた曲で、昔は「長雲節」の後に必ずこの歌がうたわれたので、長雲くずしともいわれたという。
 歌詞も激しい恋心を吐露しているが、曲もそれに相応しく内に秘めた激しい感情の起伏を表現して余すところがない。非常にしっとりとした妖艶な曲である。

徳之島節
・徒(あだ)の世(ゆ)ぬ中に 
 ながらえてぃ居れば
 朝夕血の涙 袖(すでぃ)どぅしぶる

・はかなく苦しいこの世の中に、生命長らえて居れば、朝夕血の涙でぬれた袖をしぼるだけだ。


・かして気張(きば)たんち 誰(た)かたむぃどぅなりゅり
 大和いちゅぎりゃぬ たむぃどぅなりゅり


・こんなに難儀苦労して働いたとて、一体誰のためになるのだ。大和(薩摩)の丁髷(役人)のためにしかならない。

 *「いちゅぎりゃ」 丁髷。一説では絹着物を着た人。すなわち内地役人のこと。

解説:
 この「徳之島節」は大島本島の呼び名で、徳之島のオリジナル曲。同島では「道節」「二上がり節」「送り節」等と各集落によっていろいろの呼び方をしている。胸のはりさけるような哀愁をおびた優美な曲である。
 もともと、病人が出たときに慰める夜伽の歌、また旅立ちを送るなど、物悲しい場面で歌われたものとされている。さらにサカ歌として用いられたという説もある。サカ歌とは、逆事の意で、歌に呪いを密かにこめる怖い歌である。このような生い立ちを持つ歌だけに、このような激しい哀調を帯びているのであろう。
 しかし現在は、このような背景はあまり表現されず、人生百般のさまざまの感慨をこの曲の旋律にのせて歌っている。
 なお、ここで歌われている最初の歌詞は、琉歌が島唄として定着したもの。すなわち琉歌散山節の一首で、悲哀を歌った挽歌として、音楽会は別として祝賀の席では歌わないことになっている。二番目の歌は、薩摩藩政時における島民の砂糖地獄の苦痛に対する怨嗟絶望の声を歌ったもの。


一切(ちゅっきゃ)り朝ばな節
・油断すぃんな羽黒魚(はねぃぐるいぅ)
 烏賊(いきゃ)ぬ生餌(なまゆどぅ)見ち
 油断すぃんな羽黒魚

・油断するな、羽黒魚よ。烏賊の生餌をみたら、さっさと食いつけ。さもないと他の魚に取られるよ。

 *「羽黒魚」 (シイラ)を若者に「烏賊の生餌」を生娘に例えて、早くちょっかいを出せとからかった歌。

・島や無(ね)んど 夫(うとぅ)が島
 哀れ女(うなぐ)ぬ子(くゎ)や
 島や無(ね)んど 夫(うとぅ)が島


・哀れ、女というものは、いったん嫁ぐと国はない。嫁いだ先の夫の里が自分の国だ。



・節子(すぃっこ)の富貰(とみもら)てぃくれぃれぃ
 正月(しょうがち)んにゃ芭蕉着物(ばしゃぎん)着りゃばむ
 節子の富貰てぃくれぃれぃ

・お正月には芭蕉の着物を着ても構わないから、節子の富を貰ってください。





・吾二人(わったり)どぅや玉黄金(たまくがね)
 子生(くゎな)ち孫(まが)見りがでぃ
 吾二人どぅや玉黄金


・貴方ち私二人は、それこそ玉黄金のような素晴らしい縁を結んだのだ。子供を生み孫の顔を見るまでは、決して脇見をすること無く、固く結ばれているのだ。


・行きゃんば加那居(を)りなりゅむぃ
 此間(くま)や汝(な)きゃ島ぢゃんが
  行きゃんば加那居(を)りなりゅむぃ


・せっかくこんなに盛り上がった席を立つのは
名残り惜しいのですが、ここは貴方たちの村です。去らない訳にはいきません。


・達者しうもれまた拝(をが)もう
 夕さり拝(をが)だん人(ちゅう)んきゃ
 達者しうもれまた拝もう


・今宵お会いした皆さん、この先も達者にしていてください。またお会いしましょう。


解説:
 「朝ばな節」の変形または古形とも言われている。歌詞も共通し非常に歯切れのよい陽気な曲で、歌詞は曲想に相応しい軽妙洒脱な歌詞をつけてうたわれる。
 奄美大島の島うた遊びには、はじめに挨拶歌として「朝ばな節」が歌われ、終わりにも上がり朝ばなといって、「朝ばな節」を歌って締めくくる仕来りになっているが、近年南大島ではこの「一切り朝ばな節」がその締めくくりの歌になっている。ここに掲げた後の方の2首はその一例である。


六調(ろくちょう)
・エー若松様よ    枝も栄える葉もしげるヨイヤナー
 立てばしゃくやくすわればぼたん   歩む姿はゆりの花ヨイヤー

・エーあなた百までわしゃ九十九(くじゅうく)まで
 共に白髪のはえるまでヨイヤナー
 踊り好きなら早よでて踊れ   後ははぐれて踊ららぬヨイヤナー

・エー様が踊ればおりゆてはいらぬ   足のふみよでおりゆてなるヨイヤナー
 (囃子)いしょぬ夜光貝(やくげ)と田ぬたんみゃと夫婦(とじゅう)なろちば
      田ぬたんみゃや穴ぬ
      いべさぬあまいじコッコこまいじ コッコアラユリユリユリ

・エー思て来たかよ思わず来たか   さすが男の思て来たヨイヤナー

・エー長い刀は差しよがござる     うしろさがれば前あがるヨイヤナー
 様は二十二か三(さ)ぬか   いつも変わらぬ二十二、三ヨイヤナー

・エー岳(たけ)の高さは屋久島岳よ  島の長さは種子島ヨイヤナー
 (囃子)谷山女子(うなぐ)に飯(みし)たきたんだっと
      飯やなびちき漬物(てぃけぃむん)なはなはつきや
      箸やいきゃながアヤレヤレヤレ

・エー船の船頭(せんど)さんが誠にあれば  立てた柱に花が咲くヨイヤナー

・ここは重富(しげとみ) 越ゆれば吉野   吉野越ゆれば鹿児の島ヨイヤナー

・エーわたしゃあなたに七惚れ八(や)惚れ 今度惚れたら命がけヨイヤナー

・エー君と僕とは枕はいらぬ   たがいちがいのうで枕ヨイヤナー

解説:
 奄美大島の踊り歌でもっとも急激な曲。従って踊りも乱舞形式の熱狂的な踊りである。祝典や八月踊りの絶頂になると必ずこの踊りを踊って散会することになっている。「六調」は一名「薩摩踊り歌」ともいい、内地から移入したもので、歌詞の文句も内地語で詩型も七五調である。三味線は調弦が三下がりで、奏法は三弦を往復上下とも鳴らす。この奏法から六調の名がついたという説もある。

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