・島唄の解説

奄美のしまうたへの案内 (武下 和平 CD「立神」解説書より転載 )
監修・解説:豊島澄雄

しまうたを生んだ圧政の歴史
 どの地方のものであっても、民謡というものがその地方の風土、生活、歴史の産物であることは、いうまでもない。が、とりわけ奄美大島の民謡「しまうた」においては、この地方の置かれた地理的環境、気候、歴史、民族を抜きにしては、しまうたそのものが理解できないほど深い結びつきが見られる。
 奄美大島は、大島本島を中心として、東北に横たわる喜界島、西南に沖縄まで連なる徳之島、沖永良部島、与論島の五島から成る。大島本島は鹿児島から約380km、沖縄から343kmと本土、沖縄間のほぼ中間に位置する。この地理的関係が、奄美大島の歴史に決定的な意味を持った。
 気候は海洋性かつ亜熱帯性で、気温は平均21.6度と高く、雪を見ることはない。年間降雨量3,353ミリ、多雨多湿の島である。夏から秋口にかけて台風の通過路となる、いわゆる台風銀座で、年6,7回は猛烈な台風の襲来を受ける宿命にある。
 変化に乏しい温暖な気候の反面で、この台風の災禍、そして大島本島、徳之島における毒蛇ハブの存在が島人に大きな緊張を強いることになる。
 旧藩政時代、奄美諸島は「道の島」と呼ばれた。本来ならば、文化を伝播する「海上の道」という豊なイメージで与えられるべき言葉だが、近世の奄美の歴史の上では、全く逆に悲惨な意味しか持ち得なかった。すなわち薩摩藩にとっては、琉球侵攻と支配のための道の島々でしかなかったからである。そしてそれは、薩摩藩による過酷極まる圧政の歴史と重なってくる。
 奄美諸島は、13世紀半ば頃から沖縄に琉球王朝が成立していく過程で同王朝に朝貢し、やがて完全に服属することになるが、それ以前はさらにのびやかな時代があったことを島の伝承は語っている。
 慶長14年(1609年)、薩摩藩は、道之島を経由して一気に琉球に侵攻した。これが奄美の受難の歴史の幕開けだった。やがて奄美に特産する砂糖に目をつけた薩摩藩は、ひたすら収奪に乗り出す。封建制下でも認められる最小限の事由さえ奪われ、ただ砂糖製造のための奴隷の島と化したのである。
 このような苛政と圧迫の中から、民衆の呻き声として多くのしまうたが生み出された。
しまうたの意味
 奄美における「しま」という言葉は、必ずしもアイランドを意味しない。ふるさと、郷土、出身地などを指していう場合が多い。従って「しまうた」という時、奄美大島のうたという総称の意味もあるが、より比重が置かれるのは、自分の村(集落)のうたということである。つまり、あらゆる「しまじま」(村々)に、その「しま」独特の歌がある。これらは、その地勢や人情風俗によって微妙な違いを見せる。
 このように、各「しま」ごとに歌われるが、大きく分けると、奄美本島では笠利節と東節という二つの流れになる。笠利を中心とする本島北部地方は、平野が多くのびやかな地勢を成している。それに見合って、笠利節は平明さと荘重を特徴とする。一方、南大島地方は山岳が多く地勢は険しい。ここで歌われるのは、節回しの変化にも富んだ情緒てんめんたる歌である。
しまうたと琉歌の違いと共通性
 しまうたは、琉歌の影響のもとに発達してきた。したがって、共通することも非常に多い。その最も大きな点は、詩型である。琉歌もしまうたの八八八六調の三十音となっている。日本本土の民謡が、たいてい七七七五調、二十六音を取っているのとは大きく違う。三味線(蛇皮線)を用いるという共通性もある。
 こうした共通性の反面、大きく違う点も少なくない。
 まず違うのは、作詞者の問題である。琉歌は多くの場合、作詞者の名前がはっきりしている。すなわち琉歌は、支配者たる役人が庶民統治のために作った。勿論、その後庶民へ波及してからは、庶民が作詞者の中心になったことは言うまでもない。それに対して、しまうたは、すべて無名の庶民の作である。このことは、しまうたが、日本上古の歌垣にも通じる「うた遊び」の中などで即興的に作られることが多かったこととも無関係でないだろう。うた遊びでは、その場の雰囲気に合わせて、掛け合いで歌われるが、よく知られた歌のほかに、その場で作られる歌も少なくなかった。
 また、同じように三味線を使うといっても、両者にはかなりの違いがある。琉球三味線に比べて、奄美の三味線は糸が細く、皮も薄いという違いがある。このような三味線は、音が高く澄明で、裏声を多用する奄美のしまうたによくマッチするのである。
 そして最後に、琉歌としまうたの何よりも大きな違いとして挙げなければならないのは音階である。琉歌としまうたは、ちょっと耳にしただけでも、その違いがすぐわかる。これは琉歌が琉球音階を使っているのに対して、しまうたは律音階を用いているからである。律音階は日本本土各地の民謡と同じものであり、このため、しまうたは日本本土民謡の南限であるという指摘もある。
さまざまな種類のしまうた
 しまうたとひとくちにいっても、その内容にはさまざま々な種類がある。これを大きく分けると、遊びうたと祝典や教訓のうたということになる。
 祝いうたは、さまざまな祭り、行事の際に歌われるものである。その代表的なものが正月歌と年日祝いの歌である。正月歌は、いうまでもなく新年を迎えるめでたさを寿ぐものである。年日祝いは、十三歳から始まって、二十五、三十七、四十九、六十一、七十三、八十五歳に当たった時に祝うのである。ここで歌われるのは、長寿を願い、一家の繁栄を祈りながら、親子の情愛を歌い上げる。
 婚礼歌もまた祝いうたのうちに入る。婚礼には、いろいろと式次第ごとに歌われるうたが決まっている。
 ほかに出産祝いの歌といったものがある。
 教訓歌は、文字通り、人生上の教訓を歌にしたものである。もともとは、儒教の影響を強く受けて出来た琉歌の中の教訓歌が始まりだという。そのような琉球教訓歌がそのまま歌われたものもあるあるが、しまうた独自の教訓歌もある。
 教育などというものが行きわたらない時代に、この教訓歌は、無二の教育手段であった。遊びうたは、先にも触れた「うた遊び」で歌われるうたの総称である。しかも実話や伝説に基づいた、固有の人名の登場する物語歌が多い。ほかに生活苦や世上の噂話をうたにしたものが多い。
 総じてしまうたは、身近な出来事、上官の動きを歌うもので、英雄豪傑や戦争の話は出てこない。また、藩政の圧政下で、露骨に直接苛政を怨むうたもなくはない。が、哀調切々たる響きそのものが、言わず語らずのうちに悲惨な生活を訴えている。そこにもしまうたの特徴の一つがある。


しまうたの技巧〜唱法と三味線
 島唄の唱法で、最も注目されるのは裏を多用することである。低い音域の声から高い音域へと次第に歌い移って行くと、ある高さのところで裏声となる。これを極めて自然に行うのがしまうたである。このことによって音域は大きく広がり、表現力がそれだけ増すことになる。この裏声の活用は、琉球民謡では見られず、日本本土の民謡でも例が極めて少ないといわれる。
 また、唱法の技法として「尺音」という言葉がある。これは、一小節の中で常に一定の拍子を保ちながら歌っていかなければならないという、ルールのことである。例えば、低音域から高音域へ移って行く時、苦しくなって途中で息継ぎをしたり、あるいは、こびし回しを気取るあまり、間に余計な飾り音を付け加えたりして拍子を崩すことは厳しく否定される。そうした歌い方は「尺音がなっていない」と批判されるのである。「尺音」のないうたしゃは、下手なうたしゃとされる。
 三味線の技法にも独特なものがある。琉球三味線では、指先にツメをはめてはじく。これに対して、奄美では、竹の皮を細く薄く削ってバチにする。このバチを使うと音が高く澄んだ音色となり、澄明なしまうたによく合う。
 弾き方の特徴としては、上から弾きおろすほかに、下から上にはじき返す「返しバチ」の技法がある。これも琉球三味線では見られない。さらに、弦を押さえる指を使う技法がある。一つは、左手人さし指で三番線を押し、バチで弾いた後すぐ、左手薬指で同弦を軽く押さえてはじく。これをクックヮ(装飾音)という。これによって旋律に微妙な色どりが添えられる。また、音色をまろやかにする秘技というべき技巧もある。三番線の開放弦は音が鋭すぎる場合がある。そんな時、二番線の5のツボを薬指で押さえながら、さらに下のツボを小指で押さえ、弾いた瞬間に小指を放すという技法である。この技法を使える人は少ない。弾き始めと終わりには、人さし指で弦を二回連続して押すことにより、瞬間的に静的空間を創り出す技法もある。
 琉球から三味線が伝わってはじめて、しまうたは大きな発展を見たわけだが、その奏法は琉球を大きく離れて独自に練り上げられたということができよう。

タイコうた〜八月踊り
 しまうたには、三味線うたと並んで「タイコうた」と言われるものがある。タイコを伴奏とするうたで、その代表が八月踊りである。八月踊りは、もともと稲みのりを神々に祈る節句の行事に始まる。これも各しまごとの八月踊りがあるが、今でもしまごとの差異は著しい。三味線うたが、次第に各島ごとの違いを小さくしているのに対し、八月踊りはより強く古型を残したものといえる。

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